合掌

5月1日

いつものように6時過ぎに起きて、1階に降りた。

珍しくお母さんが起きていて

「ばあちゃん亡くなったって」

 

この瞬間が、わたしの初めて体験する近親者の死でした。

側にいたわけじゃないので実感もなにもなくて、ただここから数時間の自分の動きを整理する事に専念してた。

 

おばあちゃんが死んだ。

 

2時間だけ仕事に行って、連休前のあれこれを片付けた。

あぁおばあちゃん死んだんや。

何度も湧いて来る感情やった。

家族そろって徳島へ向かう。

お父さんはどういう事を考えているのやろう。

色んな思い出がよみがえる中、彼は高速飛ばしまくってまさかの2時間30分で着。

彼の魂もまた、彼の所にあったのかなとすら思う。

 

おばあちゃんの部屋で、おばあちゃんが寝ている。

おばあちゃんはこんな顔やったかなと、そん時に、もう1年も会いに来ていなかった事に気付いた。

行けない距離でもないのにな。

安らかに眠るように、魂がまだゆらゆらと行き来しているようなそんな顔。

 

高齢者の死はたくさんみてきてる。

それは自分の経験になっていると思ってたけど、それは違う気がしたな。

この自分の身を少し削られた感覚。

自分の一部がなくなってしまったような感覚。

そのどれもが自分の中にはなくて、こんな言葉にできん気持ちをみんな経験してきているのかと思うと。

自分が経験と思っていた事は、もはや経験ではないと。

 

お通夜があって、夜伽があって、お葬式があった。

ばたばたしていてあんまり覚えてない。

火葬場で骨を拾ったときも、これ本物なんかなとかのんきな事考えてた。

お父さんと叔父さんはこれでもかというぐらいお酒を飲み、これでもかというぐらい喧嘩していたそう。

まぁそれもなかなか出来なかった事なんやろうな。

 

わたしは自分の担当の利用者さんが亡くなった時、経過記録の最後にその方へお手紙を書くようにしてる。

その方と関わる事で感じた事や、印象に残ってる事なんかを書いて、最後に合掌と書く。

ファイルを片付ける時も、専用の箱に入れた後、箱に向かって合掌してる。

 

あのファイル達のように整理が出来るのは、まだ先になりそう。

でもこれだけは。

おばあちゃんがいたから、わたしこの道に進んでるよ。

おばあちゃんは自分の身を以て、わたしをこの道に誘ってくれた第一人者で恩人。

わたしの出来る事、なにの取り柄もないわたしにでも出来る事。

光をさしてくれてありがとう。

わたしはおばあちゃんの事をみれない代わりに、他人のおじいちゃんおばあちゃんをみています。

おばあちゃんをみてくれてる人も、自分のおばあちゃんをみれていないかもしれないから。

もしかしたら、わたしの関わるおばあちゃんは、その人のおばあちゃんかもしれんから。

いいケアが巡っていくように、自分なりに頑張っています。

まだまだ未熟で、十分な事は何一つ出来ないし、心の乏しさで利用者さんに間違った感情を持ってしまう事はあるけど。

大丈夫かなぁと思う事もあるけど。それも全部見守っていてね。

 

そして深い溝が出来た、お父さん兄弟をいい方向へ導いてね。

また、四十九日の日、会いに来ます。

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